そして赤き陽は また昇る 常昇魂を宿した26番 (Page:1) | ||
変化して傷つくことを恐れるか。変化できない自分を恐れるか。 広島東洋カープで常に己の変化と向き合い、高みを目指してきた昇り鯉がいる。 始まりの鐘が鳴る 広島伝説 廣瀬純 1999年、神宮の杜は東京六大学史上9人目となる三冠王・廣瀬の誕生に沸いていた。 翌年、廣瀬はキャプテンとして法政大学をリーグ優勝に導き、シドニー五輪にも日本代表として出場。 眩(まばゆ)いまでの球歴を引っさげ、2000年に逆指名でカープに入団。 すぐさま開幕1軍を勝ち取り、4月8日には初スタメン初安打を記録。即戦力ルーキーの片鱗を見せ付けた。が、しかし…。 ケガにより戦列を離れると、ファームでは結果を出すも、1軍では辛酸をなめるという悪循環が実に5年間も続いた。 廣瀬:1年目でケガをしてしまって、そこから5年間、自分の中では「できるだろう」とか、どこかで自分の中の甘さというか、「何とかできるだろう」っていうプライドを、どうしても捨て切れることができなくて…。 廣瀬:その5年間を振り返って、大学からやってきたものが「一切通用しないな」と思ったので、そこで一切、自分の中のプライドは捨てました。 それまで自分を支えてきた球歴。体に染み込ませてきた打撃フォーム。廣瀬はその全てを捨て、変化する道を選んだ。 廣瀬:正直言ったら「すがる思い」ですよね。もう「どうにでもしてください」 廣瀬:「これがダメだったら野球を辞めます」という覚悟で、打撃フォームを変えましたね。そういう覚悟を決められたから、今があるのかなと思います。 思えば、野球を始めると決めた あの日。父親の前に正座し「野球をやらせてください」と頭を下げた。 カープへの入団を決めた日も、前田・緒方・金本と、今の自分ではレギュラーを取れない外野陣だったからこそ広島を逆指名。 常に「覚悟」と共に歩んできた野球人生。 2006年、廣瀬は動作解析の専門家の指導を仰ぎながら、新たなフォームを模索。 さらにメンタル面も変えようと、他の選手に先駆けて個人ブログも開設。自分とカープをもっと知ってもらいたいと、チームとファンを繋ぐ橋渡し役となっていた。 プライドを捨て、もがき続けながらの変化。その先にあったのは…光。 2010年、開幕からライトのレギュラーを掴み、打撃も改善。首位打者争いを演じ、初のオールスターにも出場。 さらにずっと目標にしていたゴールデングラブ賞を手中にし、一躍カープの看板選手となった。 しかし、野球の神様は廣瀬にさらなる壁を与えた。 2011年5月、チームの顔として打線を牽引してきた廣瀬の足が突然、悲鳴をあげる。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(7日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 | ||
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安芸の者がゆく@カープ情報ブログ
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