浅井と前田~不器用な同期 赤き24年間 《後編》 | |
1995年5月、前田が不運のアキレス腱断裂。 代わりの外野手として一軍に呼ばれたのが浅井だった。浅井は翌月にプロ初安打を放つと、その後は大暴れ。一軍に定着し、3割を打つ活躍を見せた。さらに翌年も3割をマーク。代打成功率は脅威の4割2分を記録した。 が、しかし…。当時、外野の選手層は厚く、浅井に与えられたポジションは代打。 「他球団に行けば主軸を打てる」という周囲の声を聞きながら、浅井は日々葛藤していた。 一方、ケガから復帰した前田もまた、思うように動かぬ己の五体と、それでも「天才」と呼ばれ続ける自分に日々葛藤していた。 それでも二人は、そんな苦悩をはねのけるように常に理想の打撃を探求し、何度もその一振りでチームを救った。気づけば時は過ぎ、17年の歳月が流れた。気づけば同期は二人だけになっていた。 そして2006年6月、浅井は激しい目眩(めまい)、吐き気などの症状に悩まされる難病「メニエール病」を発症してファームへ。 ようやく8月に復帰するも精彩を欠いた打席が続いた。 ベテランの域に達する34歳。球場を離れて一人になると、いやおう無しに引退の二文字が頭をよぎった。 その時だった。 (電話が鳴る) 今まで一度も電話を掛け合ったことのない同期の前田からだった。その時のことを浅井はこう振り返る。 浅井:ビックリですよね。なんとなくお互い意識している部分もあったと思うし、この世界で最初から皆で仲良しこよしでやるものでもないんでね。ましてや僕の場合はポジションもかぶってましたからね。 浅井:それが長くやってくると気持ちも変わって、彼なりに気にかけてくれてたのは嬉しい思い出にはなりますよね。 その数日後、試合終盤に敗色濃厚の場面で前田が放った逆転ホームランを見た浅井は、日に日に若返るチームで奮闘する前田と、チームに貢献できない自分を重ね、一人ベンチ裏で泣いた。 そして迎えた引退試合、浅井はファンの大声援の中、最後の打席に代打として向かい代打として154本目、通算代打成績をリーグ歴代2位の.315に伸ばし、静かにバットを置いた。 そして浅井を最高の形で送り出したいと語っていた前田はこの夜、ホームランを含む4安打を放ち、同期入団の友の胸で人目もはばからず泣いた。 浅井:言えないですけど、その時に前田との会話がちょこっとありました。 浅井:当然、若い時にはケンカっぽいこともしましたし、いがみ合うこと、こっちが一方的かもしれないですけど、ひがむこともありました。野球というスポーツを通じて、彼のような選手にめぐり会えて、最後に彼の中に僕という存在がちょっとでもあったというのが嬉しいしね。 浅井:僕の中では永遠に特別な存在。これからもたぶんそうだし。 この話にはまだ続きがあります。その後の鯉の話です。 あの浅井樹引退試合から7年。浅井からチームを託された広島カープ最後の優勝の味を知る男、前田智徳の引退試合。 その打席を浅井も見届けた。 浅井:3軍のコーチをさせて頂いてて、前田が春に骨折して大野に来て同じ空間にいたんで。 浅井:毎日毎日同じ事を繰り返して、凄いなと思いながら。 浅井:僕の中では1番のバッターだったので、その姿をもう誰も見ることが出来ない寂しさと、あのリハビリをしなくてよくなったんだね。ご苦労さんと。ずっとその気持ちでしたよね。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(2014年11月1日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 | |
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