戦後70年 2つの”復興”に生きた沖縄の星 (Page:2) | |
沖縄初のプロ野球選手として19歳の青年に迫る重圧と焦り。しかし、安仁屋は並の投手ではなかった。 初先発こそ黒星を喫するが、2度目の先発試合では巨人を相手に快投を演じ初勝利。 その模様は沖縄でテレビ中継され、沖縄中が安仁屋の話題で数日間持ちきりになるほどだった。 「沖縄の星」となった安仁屋はその後、大ブレイク。 特に沖縄で唯一ラジオ中継されていた巨人戦での闘志はすさまじく、巨人キラーとして名をはせた。 安仁屋:巨人ファンだった僕が巨人と戦うということは、当時の長嶋さん王さんと対戦できる、そういう人から三振をとってみたいというのが自分の中にはあったんですよね。 安仁屋:もう一つは、巨人と対戦すれば沖縄のテレビに映る。(沖縄に帰った時に)友達から「お前が投げる時は国際通りに車が通らないんだ」と。「みんながテレビで野球中継を観とるから」って。 安仁屋:それぐらい僕が投げる時は沖縄がフィーバーしてくれてたみたい。 1968年、安仁屋は23勝を挙げて球団史上初のAクラス入りに貢献。安仁屋も広島市民らと共に悲願の初優勝の夢を見始める。 安仁屋:それは喜んだですよね。残り試合の少ない土壇場でAクラスが決まったんですよね。 が、しかし…。 故郷・沖縄が悲願の本土復帰を果たす中、安仁屋は低迷。 そして1974年にはトレードで阪神へ移籍。 翌1975年、奇しくもカープは快進撃を続け悲願の初優勝を遂げる。 プロ入り11年間、カープの低迷期を支え続けてきた元エースは、その歓喜の輪に加わることはできなかった。 安仁屋:出た年にカープが優勝ですよ。やっぱり悔しかったですね。でも僕自身はカープが優勝してくれて良かったですよ。自分がお世話になったチームですから。 初優勝からさかのぼる事5ヶ月前、5月17日にカープはプロ野球史上初めて沖縄で公式戦を行った。安仁屋はカープを去ったが、超満員のスタンドからはカープへの声援が降り注いだ。 そして、この日 単独首位に躍り出た広島は初優勝への階段を登り始める。 拍手喝采のスタジアム。しかし、拍手の影に「沖縄の星を島に凱旋させてやりたかった」という沖縄県民の思いが、いつまでも拍手と共に人々の心に響いていた。 この話にはまだ続きがあります。その後の鯉の話です。 阪神へと移籍した安仁屋は中継ぎに転向し活躍を見せるが、5年後にチームの構想から外れ、再びトレードとなる。 そこで手を挙げたのは広島だった。 その年、安仁屋は2度しか1軍のマウンドに立てない状態であったが、低迷期に安仁屋と苦楽を共にした古葉は、敗色濃厚の場面ではあったが、日本シリーズのマウンドに安仁屋を立たせた。 安仁屋は人生初の優勝と日本一を味わった。 そして、選手でありながら安仁屋をスカウトするという大役を果たした平山は、引退後にカープの在米スカウトとなり、ホプキンス、ギャレット、ライトル、ロペス、ブラウンなどを入団させた。 平山:安仁屋がいたからこそ、今の僕がありますよ。僕はスカウトとかやったでしょ、それも安仁屋のおかげ。僕が安仁屋を獲りにいったでしょ、獲ってきたでしょ、そういう意味で球団も「経験があるな」と思って、外人選手を入れる時にも声がかかったね。 平山:そういう意味で僕は逆に安仁屋にお世話になってますわ。 安仁屋:平山さんの人柄に惚れた。あの人の為になんでもやってやろうという気持ちになれるんですよね。だから僕にとっては恩師であり、広島での親みたいなものですね。 安仁屋:今年のカープはどの評論家も優勝候補に挙げてたじゃないですか、昔は…だったけど、今は優勝候補に挙がるんですから、もう1回、生きている間にカープの優勝が見たいですね。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(6月25日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 | |
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