さらば市民球場 ヨシヒコ別れの言葉 《前編》 |
旧・広島市民球場が産声を上げた1957年。 遠く北海道の地で、後にカープを球団初の日本一に導く男が産声を上げた。 高橋慶彦 カープ黄金期の切り込み隊長として、球界にその名を轟かせたスター選手だった。 しかし、実は慶彦はある2つの事を「1度もしたことがない」選手だった。 盗塁 クロスカントリーのスキー選手として名をはせた父ゆずりの足腰の強さで、幼い頃から徒競走では負け無し。プロ入り後も、盗塁王に3回輝いた。 しかし、慶彦はプロに入るまで1度も盗塁をしたことがなかった。 慶彦:高校時代は4番だったので盗塁したことがないですもん。4番でピッチャーでしょ。盗塁も興味ないし、足は速かったですけど、盗塁技術もないし、まったくのずぶの素人です。 感謝 さらに、常にグラウンドで泥にまみれ、練習の虫と揶揄されていた慶彦だったが、実は1度もグラウンドに挨拶をしたことがなかった。 慶彦:みんなが感謝して、グラウンドに頭を下げていくと思うんだけど「何に対して感謝するのか」ですよね。僕は凄くグラウンドに対し、いつも感謝してるし、そのグラウンドがあるから野球ができるし。 慶彦:そういう気持ちがあったけど、帽子を取って入って出ることは1回もなかったよね。 慶彦:なぜかというと、一番の感謝は、このグラウンドの上で、このグラウンドを使って、1番ベストのプレーをするのが、俺は野球に対しての感謝だと思っている。 名将 そんな慶彦の隠された脚力と、独自の野球哲学が噤む精神力を、見抜いている男がいた。 時の監督、古葉竹識だった。 古葉:ヨシヒコ、プロ野球ってのは足だけでも飯が食えるんだぞ。 古葉はプロの奥深さを説き、球団初のスイッチヒッター転向を促した。そして… 古葉:お前が出てくるか、俺がクビになるか、どちらかだからな。 自身の進退を懸けて、慶彦を起用し始めた。そんな古葉の思いに慶彦は練習量で応えた。 連日連夜、時間さえあれば素振り。カセットテープにスイングの音を録り、質をチェックした。 また、先輩と飲みに出かけても、時間になると先輩に頭を下げ、打撃練習場で2時間打ち込んで、また店に戻った。 慶彦が一週間で打ち込んだ数は3万球という、とてつもない量に及んだ。そんな努力が結実し、スイッチヒッター転向1年目で3割を打つ活躍。 1979年には、いまだに破られていない33試合連続安打の日本記録をやってのける。その年の日本シリーズでは4割を超える打率でMVPに選ばると、カープを悲願の日本一に導いた。 その後も慶彦は名実共にカープの顔としてチームを牽引。しかし、共に日本一のペナントを手にした江夏、浩二、衣笠、そして育ての親・古葉監督がチームを去り、ついに慶彦にもその日が訪れる。 それは県民を震撼させる電撃トレードだった。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(3日放送) |
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