戦後70年 2つの”復興”に生きた沖縄の星 (Page:1) | ||
70年前の6月、20万人以上の尊い命が失われた沖縄戦が終結。 その凄惨な時代、沖縄の地で生を受けた一人のカープ選手がいた。 安仁屋宗八 今夜は、戦場と化した島から、原爆の焦土と化した街へ。”復興魂”を宿した2つの県民の心を振るわせた男の鯉の話である。 1962年8月、沖縄の人々は一際熱い夏を過ごしていた。 沖縄の高校として初めて実力で甲子園に出場する快挙、そのチームのエースが安仁屋だった。 さらに翌年、安仁屋は沖縄人として初めて都市対抗野球に出場。荒削りながらスリークォーターからの威力あるストレート、カーブ、スライダーに魅せられた各球団のスカウトは色めきたった。 世はドラフト制度導入前。いち早い入団交渉が獲得の鍵であった。 しかし、安仁屋がいるのはアメリカの統治下にあった沖縄。 当時は渡航ビザがないと沖縄には入れず、ビザの取得にも時間がかかった。 沖縄と本土、思わぬ国境を挟んでの安仁屋争奪戦。 その戦いに勝ったのは、資金も知名度も無いカープだった。 当時のカープには、「フィーバー平山」の愛称で親しまれた日系アメリカ人の外野手・平山智が在籍。パスポートを持つ平山が球団の命を受けて沖縄に飛び、他球団に先駆けて交渉。安仁屋からの合意を引き出したのであった。 当時の事を現在はアメリカで暮らす平山はこう振り返る。 平山さん:日本人はパスポートをもらうのに時間がかかったんですよ。だからそういう意味で「(沖縄に)行ってくれないか」と言われて。 平山さん:(入団交渉は)「両親と一杯飲みに行こうか」と。 平山さん:それしか知らないもの。僕は日本で教えてもらったのは飲みに行く事だけですよ。 平山さん:安仁屋のお父さん、お母さんは本当に良くしてくれたからね。沖縄の人達も「カープの平山」って言ってね。「安仁屋獲りに来た」と皆仲良くしてくれた。 そして安仁屋は…。 安仁屋:全くプロというのはね。考えたことなかったですよ。野球選手はテレビ、雑誌、メンコで見るぐらい。巨人戦しか野球中継の放送がなかったんです。 安仁屋:だから巨人戦中心で見ますからね、巨人しか知らなかったですから。(もし巨人からスカウトがあれば)飛んでいったかもしれません(笑) 安仁屋:たまたまカープの平山さんがスカウトしてくれて、平山さんじゃなかったらプロに入ってるか分からないし。 1964年、沖縄出身者として初めてプロ野球選手が誕生。しかし、「日本への返還を目指す沖縄の出身」という話題ばかりが先行。 さらに広島の気候に馴染めず、入団直後には寒さの為に右手中指に血行障害も起こした。 19歳の青年に迫る重圧と焦り。しかし、安仁屋は並の選手ではなかった。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(6月25日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 | ||
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