今こそ語ろう… 青き目の将と赤き心の主砲のはなし(秘話) (Page:2) | ||
球数制限やスモールベースボール、ブラウン革命の代名詞とも呼ばれた戦略への批判が持ちあがる。が…しかし! ブラウン:みんな私が球数を減らすと思っていたようですが、そもそも「球数制限はない」とミーティングの時に伝えていました。 ブラウン:もし140球投げられるのであれば、それはそれで素晴らしいし、もし疲れが見えるようであれば「ちゃんと考慮して代えてあげる」と。 Q.メディアが作り出したイメージということですか? ブラウン:そうです。いつも球数制限について質問されましたが、そもそも私には球数制限という考えはありませんでした。 さらに「勝てぬ将」と、「勝ちを齎(もたら)せぬ主砲」に、しばしばメディアは軋轢(あつれき)があると書きたてた。 しかし、本人達は違っていた。 ブラウン:新井はうるさく言うようなタイプではありません。自分なりの練習メニューを持っていましたし、試合前に2時間の仮眠を取っていましたが、そうしたほうが良いプレーができることを知っていました。彼は自分のすべきことが分かっていたので、私が指示する必要はありませんでした。 ブラウン:そうやって自由にやらせていくうちに、私たちは信頼関係を築いていったのです。お互いに良い関係と、良い距離感を築いてきました。 それから3年、ブラウンはチームに数々の新風を吹き込むも、チームを浮上させることはできず、非難の矢面に立たされたままチームを去った。 そして、低迷するチームの4番も、もがき苦しみながらも多くを語らず、カープファンの心に深い悲しみと怒りを残して、チームを去った。 奇しくも、かつてガムシャラに白球を追いかけてグラウンド内外で愛された二人の男は、ファンには祝福されず広島を後にした。 しかし、二人の野球人の熱き友情は、人知れずその後も続いた。 それは2010年10月、ブラウンが楽天監督の任を解かれアメリカに帰る最後の夜の事だった。 ブラウン:日本を離れる時に、新井はわざわざ逢いに来てくれて一緒に食事をしたんです。 新井はかつての将に別れの挨拶をする為だけに、わざわざ神戸から仙台まで逢いにやってきたのです。 ブラウン:新井とは私の今後についての話はしませんでした。別れの挨拶をしに来てくれたという感じです。一緒に出掛け、お互いの家族の話をしました。 ブラウン:彼の家族とは以前食事に行ったこともありますが、とても素敵な人たちです。新井は友人である私を気遣って来てくれたのです。 スポーツの世界に「たら」「れば」は皆無と言われる。が、もしも二人が低迷期ではない広島カープで出会っていれば…鯉の話はまた別の話になっていたかもしれない。 この話にはまだ続きがあります。その後の鯉の話です。 《続く》 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(28日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 | ||
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安芸の者がゆく@カープ情報ブログ
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