競輪選手になった 3人の鯉戦士 (Page:1) |
新たな鯉が生まれる季節。 それは共に汗と涙を流した鯉達が、去り行く季節…第二の人生へと歩き出す季節でもある。 今夜はプロスポーツからプロスポーツの道へ。野球界から競輪界へと走り抜けた3人のカープ選手の鯉の話。その前編である。 2003年秋、カープファンに衝撃が走った。 走攻守三拍子そろった大型内野手として、ドラフト2位で入団。一時は正田耕三から背番号「4」を受け継ぎ、まだ24歳であった兵動秀治の自由契約の一報だった。 兵動は現役続行を目指し、ロッテを始め4球団のテストを受けたが入団には至らず無職に…。 しかも、同時期にフィアンセと入籍。思いもよらぬ第二の人生の入り口に立たされた。 しかし、そんな兵動を支えんとする広島人がいた。落ち込んでいた時、兵動に支えられてきた福井博昭だった。 福井さん:結構、逆の立場の時でも励ましてもらったりしてたんで、今度は僕が励ます番かなと。兄弟みたいな感じで仲良くやってたんで。できるだけ応援しようという気持ちでした。 福井さん:すごく人の気持ちが分かるというか、僕に何かあると「なんで分かったのかな?」という感じで、すごいタイミングで電話があるんです。「飲みに行きましょう」と。 福井さん:僕にとっても頼もしい人間でもありますし、すごく信頼のおける男ですね。 半ば野球の道を諦めていた兵動。 が、野球人・兵動にも惚れ込んでいた福井は粘り強く説得。自らが経営する運送会社でバイトさせ、社員らと練習の相手を買ってでて、兵動に野球を続けさせた。 そんな思いに応えるように、兵動はその後2年に渡りアメリカや韓国でプロ復帰への道を模索。 子供が生まれたばかりの妻も、夫の夢を共に追いかけ背中を押した。 兵動:嫁さんが、子供の頃、ちょこちょこ留学に行かせてもらってて「日本しか知らずに人生終わるのはもったいないよ」というのはすごく言われて。 兵動:下の子は生まれたばかりです。二人目が生まれて すぐにアメリカに行きました。それも無茶苦茶ですけど、それにはもう全然「行っておいで」と。 が、しかし…。結果には結びつかず、プロの道は断念。 兵動は福井の会社で、サラリーマンとして第二の人生を歩む事になった。 福井さん:そこから僕の右腕左腕になって、一緒に働いてくれてました。会社の雰囲気は全然良くなりましたね。好かれる子なんで、笑い声も大きくて、みんなが集まりやすい人間だったと思うんでね。 福井さん:会社的にはすごく良い雰囲気で、リーダー格でやってくれてました。特に若い子をまとめてくれていたので、うちもすごくやりやすかったです。 天性の明るさと人懐っこさで、会社にとってなくてはならない人間となった兵動。その姿は誰の目にも順風満帆かに見えたが…。 2007年、福井は兵動から告げられた言葉に耳を疑った。 兵動:競輪の選手になろうと思うんです。 《続く》 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(10月29日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 |
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