「はだしのゲン」の中の広島カープ (後編) | |
1975年10月15日。 中沢は広島カープ初優勝の瞬間を自宅のテレビの前で見届ける。 中沢さんの妻:締め切りが近いから漫画を書かないといけないんだけど、それを放っておいて3時間はテレビにカジりついて見ていましたね。試合が終わったら新聞や週刊誌を全部集めていました。 妻:一番はじめの優勝ということが一番大事なこと。そこを区切りとしてマンガを描くと。 中沢はテレビの前で見たその感動を10ページにかけて描いた。 妻:(球団に)お金が無くて、どうやって選手を育てていくのかしらという不安。市民が一生懸命に協力しながら強くなっていくんですよね。カープが優勝することが夢でしたからね。いつも最下位ばかりだったのが初めて優勝したのは何よりも嬉しかったです。 それから37年、平和と広島カープを愛し続けた中沢は73歳の生涯を閉じた。 その晩年も中沢の机の側には常にカープの試合を聴くラジオがあったという。 妻:本当に開幕したばかりの4月、5月はすごく強いんですよね。でも夏になると段々…「体力がないのかねぇ?」って言ってたんですけどね。 妻:それでまたちょっと良くなるんですけど、最後の10月になると負け越しがずっと続くでしょ。だから悔しいですよね。人一倍、広島を愛しているから、どこに居てもカープファンには間違いないです。 踏まれても踏まれても大地に根を張り、たくましい芽を出す麦。中沢の人生そのものだった。 この話にはまだ続きがあります。その後の鯉の話です。 2011年8月5日。「原爆の日」を明日に控えた球場のマウンドに中沢はいた。 中沢さんの妻:(球団から)今年の夏に始球式に出てもらえますか?と連絡があったんですよ。主人もカープの始球式に出していただける事を喜んでました。 妻:自分では遠くに投げられる自信を持ってたみたいなんだけど、いざ本番になると球が飛ばなかったんですね。やっぱり癌の手術の影響もあったんでしょうね。でもカープの始球式に出られたことはずこく嬉しかったみたいで、記念になりましたし、満面の笑みでした。 野球少年の顔に戻った中沢は大役を果たした後、こう言った。 「こういう時(原爆の日)、野球をやると不謹慎と言われる…。だけど平和だから出来るということを喜ばないといけない…」 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(2014年8月2日放送) | |
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