今こそ語ろう… 青き目の将と赤き心の主砲のはなし(秘話) (Page:1) | |||
野球場に「時間」(とき)と言う風が吹く。 風は去っていった男を、再び故郷へと誘った。 風の中の記憶…。 地鳴りのようなブーイング。 そして、青き目の将に向けられた采配への批判。 これは時間の風だけが知る、ただひたすらに白球だけを追いかけて来た、2人の男の鯉の話である。 カープが最後の優勝を飾った翌年、海を渡ってきた新助っ人の持ち物を見て報道陣は驚いた。 内野用からキャッチャーミットまで実に5種類のグラブを持参。アメリカで全ポジションを経験していた事から「出場できるならどこでも守る」という意気込みを宿していたのがマーティ・ブラウンだった。 ブラウンは紅白戦やオープン戦から、ヘッドスライディングを始め常に全力プレー。 シーズンの幕が開けると、そのプレースタイルに感化されるようにチームは快進撃。開幕2ヶ月で「ブラウン効果」という言葉も生まれた。 さらに当時から「将来の夢は監督なんだ」と語り、日本の野球を一から学ぶことを決意。 それまでの外国人選手は、遠征先のホテルではナインとは別々に食事を取ってきた。しかし、ブラウンは必ずチームメイトと一緒。その姿勢はグラウンド内外で愛された。 そんな野球に対するガムシャラさと、純真さを持ち合わせていたブラウンが「たとえ死にかけていても頑張るような選手」と言わしめた男。 それが新井貴浩だった。 1998年、ドラフト6位で入団した新井を、球団は「練習熱心でガッツがある選手」と紹介。 その前触れ通りガムシャラに練習をし、開幕1軍の座を掴んだ新井は豪快なスイングと全力プレーを披露。 体重が10キロも落ちるほど野球漬けのルーキーシーズンを送り、首脳陣はそんな新人選手を「謙虚で学ぶ楽しさを追求する姿勢を持った選手」と評した。 そんな同じような野球観を持つ二人が、監督と主力選手として顔を合わせた2006年。 カープは前年最下位。奇しくも新井が入団した年から8年間、一度もAクラスに入れない状況にあった。 当時を振り返り、ブラウンはこう語る。 ブラウン:いきなりチームを改革するという事はしたくなかったのですが、球団は私が変化をもたらすことに期待をしていました。 ブラウン:カープはずっと負け癖がついていましたし、その状況から抜け出すための変化を期待し、私を雇ったわけですから。出来るだけ早く結果を出したいという思いは頭の中にありました。 求められた改革。しかし、チームに「負け癖」がついていれば、ファンやメディアには「批判癖」がついていたのも事実だった。 監督就任当初はその派手なパフォーマンスやユーモアで、かつての「ルーツ革命」のようにもてはやされるも、チームが低迷し始めると空気は一変。 先発投手は5回まで試合を作ったあとは、球数に応じて中継ぎへリレーする「球数制限」を始め、スモールベースボールやケース打撃などブラウン革命の代名詞とも言われた戦略への批判が持ち上がった。 が、しかし…。 ブラウン:いつも球数制限について質問されましたが、そもそも私には球数制限という考えはありませんでした。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(28日放送)より「安芸の者がゆく」が文字起こし及び意訳・一部抜粋 | |||
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安芸の者がゆく@カープ情報ブログ
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