第18話 病魔と闘い続けウイニングボールを掴んだ男 | |
精密検査の結果次第では退団。かつて病魔に冒されながらカープに入団した強き鯉がいました。 2013年10月 赤き侍、前田智徳が引退。その前日、引退試合を待たず、前田がその男の胸で涙した姿が話題となった。 若き日の恩師であり、互いにもがき苦しみながらグラウンドに立ち続けた野球人。水谷実雄だった。 高校3年の12月、水谷の戦いの日々はドラフトで指名された直後から始まった。突然、高熱で倒れ、その熱は40度のまま2ヶ月以上続いた。 宣告された病名は「急性腎炎」 当時、患者の1/3が死に至ると言われた病で、医師からは「野球をやめないと命の保障はできない」と宣告された。 だが水谷は「ワシから野球をとったら何が残るんだ…」「死んでもいい…飯より好きな野球ができれば…」 野球に全てをかける道を選んだ。 水谷:(当時)抗生物質が出来たのよ。それをバンバン打つわけよ。先生が「もうこれで止めます。これ以上打ったら体がボロボロになって具合が悪いから」と。 水谷:球団からは「検査をして悪かったら入団は辞めましょう」と言われた。 しかし、1年目は病気も完治しておらず、漢方薬を飲みながらファームで体力作り。腎臓病が治った2年目にかけるも、すぐに投手から野手へのコンバートを命じられた。 それでも命を懸けて飛び込んだ野球の道。水谷は自信のあった打撃に磨きをかけ、当時のウエスタンの新記録となる1試合4本塁打を放ち1軍行きのキップを掴むと、レギュラーの一角を担うまでとなった。 しかし、その体はいつ腎炎を発症してもおかしくない状態。服用していた薬の副作用で皮膚は荒れ、湿疹に悩まされ、慢性的にビタミンB1が欠乏して極度の疲労感に襲われた。 水谷はそれを補うため、プライベートを切り詰め、他の選手の二倍の睡眠をとることに心血を注いだ。「悪いやつほどよく眠る」そう周囲がからかうこともあった。水谷はグッとこらえ、枕にしがみついた。 そんな姿を野球の神様が見ていたのか、急性腎炎に倒れたあの日から10年。水谷はカープ優勝のウイニングボールをその手に掴んだ。 水谷:俺のとこに飛んでくるな。俺のとこに飛んでくるな。それだけ。 水谷:優勝のことなんか考えてないのに、また飛んできたんや。これが。捕ったときはホッとした。 その後、順風満帆の野球人生を送っていた水谷だったが、1984年にトレード先の阪急で頭に死球を受けた。三半規管に障害が出るほどの重症だった。 このケガが一つの原因となり、引退を余儀なくされた。 しかし、病気とケガに苦しみ続けた水谷の経験は、第2の野球人生で活かされる。1989年、カープの打撃コーチに就任。 その年、入団してきた選手が前田智徳だった。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(20日放送) | |
《前編》 | 《後編》 |
安芸の者がゆく@カープ情報ブログ
プロ野球・広島東洋カープに関連した情報等をお届けする個人ブログ。速報・話題・予想先発・2軍情報など