「はだしのゲン」の中の広島カープ (前編) |
2014年、プロ野球開幕にあわせて真っ赤な表紙のマンガが20年ぶりに復刊された。「はだしのゲン」の作者として知られる男が書いた鯉の話だった。 漫画家・中沢啓治 広島に落とされた人類初の原子爆弾によって小学1年生で被爆。焦土と化した広島の街を、同じ境遇の市民らと共に懸命に復興させた強き広島人だった。 1972年、中沢は自らの体験を基にした自伝的なマンガ「はだしのゲン」をスタートさせた。 原爆という重く暗いテーマをいかに子供に読ませるか、いかに子供に読み継がれていくか、中沢は悩みながら「はだしのゲン」を書いた。 そんな中沢の束の間の楽しみ。それがカープのラジオ中継だった。 中沢さんの妻:広島対巨人、阪神、そういう球団とだったらラジオをずっとつけっぱなしでした。手は休めないで描きながらラジオを聴いて、打てば喜びながら描いていました。 中沢のカープ愛は、やがてストーリーの合間からあふれ出した。 焼け野原にされ、夢も希望もなくした広島県民が作り出したカープ。資金がなく遠征では電車の中で通路に寝ていた選手達。 資金難を救うべく県民が身銭を切って支えた樽募金。球団と県民の絆を主人公・ゲンの成長の中に散りばめた。 中沢さんの妻:焼け野原で何の楽しみもない所で球団ができるわけじゃないですか、本当に貧しくてお金がなく、市民が協力して樽募金を作って応援していたと言っていました。 中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行った。その熱狂ぶりはカープ見たさに甲子園球場に出向くほどだった。 そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻も、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。 しかし、カープは最下位続き。球団創立から24年間、1度も優勝はできなかった。中沢は当時のファンのくやしさ、歯がゆさ、それでも尽きることのない期待と願いを書き綴った。 そして1975年10月15日、中沢は広島カープ初優勝の瞬間を自宅のテレビの前で見届ける。 ── 広島ホームテレビ「鯉のはなシアター」(2日放送)より |
安芸の者がゆく@カープ情報ブログ
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